長崎街道>見どころ&食べどころ>浪漫の旅 グルメ情報ぐるめなび <長崎>佐賀><福岡><北九州> ◆観光・ぐるめ・日帰り温泉 |
<長崎街道>ご紹介 小倉 長崎街道ルートMAP看板 ・長崎街道は、豊前国(細川忠興)小倉の紫川に架かる常盤橋を起点として、直方、飯塚、筑紫野、鳥栖、佐賀、武雄、大村、諫早を経て、鎖国制度の下、海外との外交や貿易が許された長崎(シーボルト通りの中間)までの57里(約223.8km)の道程です。途中には25の宿場が置かれました。江戸時代、1635(寛永12)年、三代将軍(徳川家光)の時代に武家諸法度が改訂、大名の参勤交代が制度化されて、長崎街道は整備されてゆきましたが、旧長崎街道沿いには、今なお多くの遺構が残されています。 小倉(起点)常盤橋 ※北九州市小倉の紫川に架かる「常盤橋」は、小倉から九州各地に延びる五街道(長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還)すべてにつながる橋で、街道の起点であり終点でもありました。江戸初期(細川時代)に紫川の東側を開発した際、以前の城下町であった西側とを結ぶ橋として架設されたといわれています。以前は大橋と呼ばれ、元禄5年~7年に架け替えられてから常盤橋と呼ばれるようになりました。 小倉城 ※江戸時代前に毛利勝信が現在の縄張で総石垣造の城郭を築き、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの論功行賞で豊前国全域と豊後国の二郡を領することとなった細川忠興が、当初は中津城に在城したが、後に小倉に居城として南蛮造りの天守閣をつくり整備した名城です。街道は、小倉城を左手に見ながら室町商店街を西へ進み、大門一丁目交差点を左折して県道296号線へと進みます。田町交差点を過ぎて、福岡地方裁判所のある金田交差点で270号線と合流し直進します。 小倉 到津口門跡 ※小倉北区田町19(田町公園前)に、到津口門跡の看板があります。門の外には土手と堀が連なり、内側には三角形の約1000坪の「勢溜」と呼ばれる広場があって、現存する万徳寺や西応寺といった寺が建ち並んでいました。これらは敵が攻めてきた時の砦にもなったと言います。 小倉 清水小学校 ※小倉裁判所を左手に見ながら南西方向に進み、善龍寺のある原町交差点を右折して南西方向、JR日豊本線を越えます。清水小学校を左手に進むと小倉北区清水(きよみず)3丁目でで国道3号線にぶつかります。(清水3丁目~浄土真宗法輪寺の近くの杉本商店辺りに延びていた街道が無くなっているようです。) 小倉 水掛け地蔵尊(長崎街道記念碑) ※街道は、再び、 浄土真宗法輪寺周辺から見え始め進むと、清水5丁目の九州歯科大学の裏に、1500年以前から存在する湧き清水の泉があり、そばに「水掛け地蔵尊」が祀られています。横には長崎街道記念碑があり、建立と説明が記されています。 小倉 茶屋川橋 ※「水掛け地蔵尊」を南西に金鶏町通って昭和3丁目に進み、更に進むと槻田川に架かる茶屋川橋があります。すぐそばには九州鉄道茶屋町橋梁の横を通り抜けます。 小倉 九州鉄道茶屋町橋梁 ※ひときわ目を引く「九州鉄道茶屋町橋梁」です。明治時代にはここを電車が走っていました。これは明治24年に開通した九州鉄道大蔵線の鉄橋で煉瓦を積んだ弧型アーチです。九州鉄道株式会社は門司~黒崎間に鉄道を敷設して営業していましたが、明治35年戸畑線(現鹿児島本線)の開通、明治40年の九州鉄道の国有化等の時代を流転を繰り返し、明治44年年に廃線となりました。 ■黒崎宿(北九州市八幡西区) ※黒崎宿は、福岡藩と小倉両藩の境界に位置し、長崎街道における筑前福岡領の玄関でした。 参勤交代の制度が確立した寛永年間(1624~1644)頃に整備されました。 黒崎宿 荒生田の一里塚跡 ※北九州市八幡東区高見2丁目7にある、荒生田の一里塚跡、八幡東区内には、荒生田と前田に一里塚の跡があります。「正保年間豊前六郡図」に「一里山より境目まで五十間」と記されていることから、国境(くにざかい)から筑前側(西)に約九〇メートル先にあったと思われます。(正保年間:1644~648) 小倉 三条の国境石 ※三条橋交差点を右折すると、「三条の国境石」があります。北九州は、ほぼ中央から東西に、筑前国福岡藩と豊前国小倉藩別れていて、江戸時代には両藩により数多くの境界石が建てられ、13碑が残っています。この三条の国境石もその一つで、1634年(天保5年)に建て替えられ、福岡藩側では最大のものです。市内の境界石はそのほとんどが移転や消失していますが、この境界石だけは当時のままこの場所に残っています。 黒崎宿 前田の一里塚 ※桃園2丁目から国道3号線と合流する桃園1丁目方面へ進む途中の八幡東区前田3丁目公園に、前田の一里塚跡があります。ここを過ぎると、いよいよ、黒崎宿の東構口に向かいます。 黒崎宿 宿場町並み(藤田銀天街) ※藤田通りに残る旧街道の町並みです。 黒崎宿 人馬継所址の碑(藤田銀天街) ※藤田銀天街、近くの、春日神社が見えます。 黒崎宿 春日神社 ※藤田銀天街、近くの、春日神社(藤田1-10-44)には、福岡藩、二代藩主黒田忠之が、初代藩主、黒田長政を祭っています。黒田節で有名な母里太兵衛など黒田藩の中でも特に秀でていたと伝えられる「黒田二十四騎」の肖像画などが奉納されています。 黒崎宿 櫻屋旅館跡 ※櫻屋旅館は、正面のマンションの場所にあったそうです。天保十一年(1840年)に建築されたと云われている離れ座敷をもつ旅館で、明治維新の歴史を伝える貴重な建物として、平成2年に解体されましたが、櫻屋旅館の離れ座敷の材木は、引野小学校内で、再建される時が来る時まで保管されているそうです。 黒崎宿 末松商店 ※末松家はかつてこの地で醸造業を営む名家でした。長崎街道黒崎宿の 黒崎宿 黒崎城跡 ※黒崎城は前方に見える小高い丘の上にあったようです。 黒崎宿 黒崎宿湊の常夜灯 ※八幡西区田町2丁目に『田町歴史の径』公園があり、公園には、街道の案内板と「黒崎湊の常夜灯」、「城石村開作成就の碑」が建っています。西に約100m行くと東構口あります。 黒崎宿 東構口 ※黒崎宿の小倉側からの入口、黒崎駅から北東に約400m、『田町歴史の径』公園の通りで八幡西区田町2丁目にあります。 黒崎宿 宿場通り 黒崎宿 長崎くつろぎ広場(黒崎商店街) ※黒崎商店街にある長崎街道「くつろぎ広場」の場所、八幡西区熊手1-1-29 黒崎宿 西構口 ※藤田銀天街へ向かう、通りの入口正面に、黒崎宿西構口の碑があります。 黒崎宿 曲里の松並木から宿場方面 ※ 曲里の松並木から西構口方面への町並み 黒崎宿 曲里(まがり)の松並木 ※曲里の松並木の北の入口は、山手線の岸の浦2丁目交差点と東曲里交差点の間になります。松並木は約600mつづき、西側には並行して国道200号線が通っています。黒崎宿は、福岡藩で唯一、上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港を持つ宿場町として栄えました。 黒崎宿 古街道碑 ※街道は、割子橋近くのこの坂を登ったところで国道200号線と合流します。 黒崎宿 涼(すずみ)八幡宮~木屋瀬方面 ※昔、境内の大松の木陰で、旅人が涼んで休憩したので、この名が付きました。 黒崎宿 蛭子神社前~木屋瀬方面 ◇黒崎宿 蛭子神社~木屋瀬方面 ■木屋瀬宿(北九州市八幡西区) 木屋瀬宿 小嶺の一里塚跡 ※旧長崎街道は、国道211号の小嶺団2丁目交差点から右折します。その付近は石坂で上り坂になっています。坂道の頂上近くに駐車場の案内があり、先の右手には立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや)はあります。 黒崎宿 立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや) ※立場茶屋銀杏屋は、大名達の休憩所で、屋敷のすぐ横に目印の大銀杏があったので、その名が付けられました。1836(天保7)年に火災で焼失し、後に建築されたものが現在の建物です。庭の銀杏の木には、枯れた幹があり、当時の際の火災の被害を醸し出しています。 木屋瀬宿 遠賀川と中島橋 ※木屋瀬宿は、遠賀川と並行する県道73号、直方・水巻線沿いの中島橋のたもとにあります。遠賀川を利用した水運が盛んで、年貢米の輸送をはじめ、水運には五平太船が利用されました。江戸中期から明治にかけては、石炭の輸送にも利用され、ここから堀川を下り、洞海湾を経て、若松港に運ばれました。木屋瀬宿は、筑前六宿(むしゅく)の1つで、そのまま直方に南下する長崎街道の同じく筑前六宿(むしゅく)の1つ飯塚宿と、遠賀川に架かる中島橋を渡って、唐津街道の赤間宿を通り博多・唐津の名古屋城に到る追分宿でもありました。 木屋瀬宿 大銀杏 ※木屋瀬宿は小倉を起点とする長崎街道第2番目の宿場で、筑前六宿(むしゅく)(黒崎宿、木屋瀬宿、飯塚宿、内野宿、山家宿、原田宿)のひとつで、慶長年間(1596年~1615年)から寛永年間(1634年~1644年)にかけて開通しました。各宿場の入口には構口が設けられ番所などがおかれました。木屋瀬宿の西構口(飯塚側)には貴重な石垣の遺構が残っています。木屋瀬の町並みは東から、新地町、下町、本町、中町、新町。そこで大きく折れて遠賀川に沿うかたちで改盛町、感田町が形成され、西の構口を出たところが川渡し場でした。当時、舟着き場の目印だった木屋瀬宿の「大銀杏」が今も、中島橋たもとの県道73号、直方・水巻線沿いそびえています。 木屋瀬宿 中島橋 ※木屋瀬から赤間道を行くには、遠賀川と犬鳴川を渡し舟に乗って直方市の植木に渡っていました。大正時代に、遠賀川の土手が築かれると同時に、木製の中島橋が架けられました。その後、昭和2年にコンクリートの橋に架け替えられました。当時の橋柱が橋のたもとに保存されています。 木屋瀬宿 東構口 ※このあたりが黒崎宿から木屋瀬に到る出入口付近です。宿場内には、東構口から西構口まで約1.1kmの街道が通っています。街道沿いの家並みは、敵が攻めてきた時に、影に隠れて不意をついて攻撃したりするため、のこぎり歯状に建てられていました。 木屋瀬宿 町並み 木屋瀬記念館/一般200円、高校円100円、小中50円/営業:9:00~18:00 ※木屋瀬宿は江戸時代の筑前六宿(むしゅく)の1つで、遠賀川の水運で栄えました。福岡藩内の宿場町には藩主の別館「御茶屋」が置かれ、藩主が休憩したり宿泊に利用したり、また、参勤交代時に本陣として隣国の大名が宿泊したりしました。 木屋瀬宿 みちの郷土史料館 木屋瀬宿 町並み 木屋瀬宿 本陣の門跡 ※永源寺裏門に、木屋瀬宿本陣の門があります。明治期に本陣が廃止された時、この寺の正門に移築され、後の大正期に裏門に移築されたそうです。 木屋瀬宿 高崎家 ※木屋瀬宿 旧高崎家(伊馬春部の生家)で、建築は1835(天保6)年とされています。高崎家は櫨(はぜ)の実から蝋(ろう)を絞る絞蝋(こうろう)業を営んでいましたが、明治に入ってからは醤油醸造業を営んでいました。 木屋瀬宿 高崎家 箱階段 ◇木屋瀬宿 村庄屋(松尾家)跡 ※木屋瀬記念館の南約150mに村庄屋跡(松尾家)はあります。江戸時代の木屋瀬には、村庄屋・宿庄屋・船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は全体を統括した。松尾家は屋号を灰屋(はいや)と称し、問屋役・人馬支配役・村庄屋などを務めました。この建物は江戸時代末期の建築で、妻入りの入母屋造り、漆喰を軒裏まで塗りこめた大壁造りでかつ2階に鉄格子付の窓を設け、外側には防火戸があり、居室部には摺り上げ戸が残る。家の裏手は遠賀川の土手まで敷地があります。 木屋瀬宿 船庄屋(梅本家)跡 ※木屋瀬宿には、年貢米の集積場である本場(米場)が置かれていました。そして、年貢米の運搬は、権利をもった24隻の「川ひらた」に限られており、その管理を行っていたのが船庄屋です。現在の建物は、天保年間の建築で、平入りの切妻造りで大壁造りとなっています。なお、かつて屋根は草葺であったと云われています。室内には奥まで続く土間があり、1階座敷の天井は「船底天井」となっています。 木屋瀬宿 西構口 ※構口は、設置の方向にかかわらず、江戸への上り方面を東構口、下り方面を西構口としました。従って、この西構口は、次の飯塚宿への出入口となります。 飯塚宿(飯塚市) ※飯塚宿は、遠賀川の水陸交通の要所で、木屋瀬宿側から北構口(かまえぐち)が入口で、途中、オランダ屋敷跡、 北構口跡、 問屋場 跡、 中茶屋跡、 御茶屋跡、 大神宮跡南構口跡など石柱が残っているものの現存する遺構が見当たりません。飯塚は、明治以降は炭鉱の町として栄え、伊藤伝右衛門邸と柳原白蓮に関する写真等の展示資料館と嘉穂劇場などからその繁栄ぶりが見とれます。 内野宿(飯塚市) ◇内野宿 東構口付近 ※飯塚宿側か内野宿への入口 内野宿大銀杏 ※内野宿の御茶屋近くには樹齢約400年、高さ38mの大銀杏(イチョウ)があり、宿のシンボルになっています。 内野宿 長崎屋 ※内野宿の旧脇本陣の「長崎屋」は、飯塚市が「友遊館」として一般に公開しています。この地を訪れた人への休憩施設として平成16年に開館、地元の食材を使った郷土料理を提供しています。 内野宿 長崎屋内 内野宿小倉屋 ※江戸元禄の頃からの地主が両替商を営んでいたと言われています。伊能忠敬がこの地を測量した時は一行が宿泊ことでも有名です。 内野宿 関屋 ◇冷水側から内野宿への入口 ●冷水峠(飯塚市) 冷水峠(長崎旧街道入口) ※内野宿からの入口、荒田の大根地神社の鳥居から長崎街道に入ります。南西に延びる山家側の国道200号線との合流地点まで約2kmが旧長崎街道です。街道の頂上付近にに大根地神社があります。 冷水峠(石田畳) ※途中、途中に長崎街道の面影を残す石畳があります。 冷水峠(冷水の由来) ※旅人は冷水を流れる小川の冷たい水で 喉を潤し、疲れを癒したといいます。それが「冷水」の名前の由来となったそうです。 冷水峠 首なし地蔵手前 ※長崎街道の最大の難所として有名な冷水峠は、飯塚市と筑紫野(ちくしの)市の境にある標高283メートルの峠です。当時は、道中、山賊に襲われたりして命を落とす人も多かったそうです。 冷水峠 首なし地蔵 ※旧長崎街道の最大の難所としては、長崎市の日見峠や嬉野市の俵峠ともっとも難所だった冷水峠が有名ですが、当時、道中では、山賊に襲われたりして命を落とす人も多かったそうです。冷水峠の民話として伝わる「首なし地蔵の話」:当時、旅人がこの峠で連れの男を殺し、道ばたに立っていた地蔵に「誰にも言うなよ」と言うと、地蔵が「ワシは言わぬが我れ言うな」と言ったそうな。驚いたその旅人は、その地蔵の首を叩き落しました。何年か経ってからの事、二人の旅人がここを通り、谷川の水で喉を潤していると、1人が地蔵様を拝もうと見ると首がない事に気づき驚きました。もう一人の旅人は、地蔵様の首を落とした悪者でした。しかし、地蔵様の「ワシは言わぬが我れ言うな」の忠告を忘れて、連れに首がない訳を自慢げに話してしまいました。話を聞いた連れの旅人は、以前殺された旅人の血縁であったため、すぐに仇打ちされたという話です。 大根地神社の鳥居 ※首なし地蔵から少し登った所にある大根地神社は、神功皇后が羽白熊鷲(はじろのくまわし)を征伐する際に登山し、天神7代、地神5代を祭ったのが始まりとされています。 大根地神社の前の追分 ※大根地神社の前にある、追分札、左が山家方面・・右が内野方面です。 大根地神社から内野宿方面 ◇大根地神社から内野側は石畳の歩道で、車の出入りはできません。 大根地神社から山家宿方面 ※山家方面から神社までは何とか車で行くことができました。 ■山家宿(筑紫野市) 山家宿 冷水峠上り口 山家宿 東溝口 ※山家宿は、長崎街道・日田街道・薩摩街道の三街道が合流する場所で、九州の諸大名が通りました 。 山家宿郡屋跡入口 ※郡屋は、郡奉行の通達を郡内の村役人を集めて伝えたり、参勤交代の人馬役の打ち合わせを行う施設です。郡屋は主要な宿場に置かれ郡屋守が管理しました。。 山家宿 郡屋 穀蔵跡 山家宿 郡屋 灰屋跡 山家宿 郡屋 土蔵跡 原田宿(筑紫野市) ※右側が長崎街道 ■田代宿(鳥栖市) 田代宿 追分石 ※左:くるめ道⇔右:さか・・とあります 田代宿方面 田代宿 追分石 ※左:田代宿⇔右:轟木宿・・とあります 轟木宿 方面 轟木宿(鳥栖市) ※日子神社の西側(左)には幕府の告示を掲げる「高札場」がありました。 ■中原宿(みやき町) 中原宿 東溝口 ※宿場の東側の入口 中原宿 岡崎屋 ※江戸時代の旅籠で中原宿に唯一残る「岡崎屋」 中原宿 岡崎屋 透かし彫り ※岡崎屋の二階の手すりには透かし彫りで「中原驛岡崎屋御定」と刻まれています。 ■神埼宿(神埼市) 神埼宿 案内板 神崎宿 西木戸 神埼宿 ひのはしら一里塚 ※神崎宿の「ひのはしら一里塚」は長崎街道に現存する唯一の一里塚です。 神埼宿 櫛田宮(くしだぐう)の鳥居と長崎街道 神崎宿 西木戸からの町並み ■境原宿(神埼市) 境原宿 町並み ※昔は蝋(ろう)問屋があり、白壁の土蔵が街道沿いに建ち並んで、長崎街道と蓮池住環路の分岐点として水運が盛んな場所であり、農産物を積んだ船が有明海へ出入りして栄えました。現在では、ほとんど遺跡は残ってないようです。 境原宿 下村湖人 生家 ※下村湖人の生家・資料館佐賀県神埼市千代田町崎村895、「次郎物語」の著者、明治17年~昭和30年に活躍した小説家、昭和46年に地元住民を中心に「下村湖人生家保存会」が結成され、同会が生家を買い取って公開するようになりました。 ■佐賀宿(佐賀市) 佐賀宿 東溝口番所跡 ※佐賀藩の番所があった場所(柳橋) ※佐賀宿 本陣跡 佐賀宿 旧牛島家 ※佐賀市呉服町交差点に掲かかる長崎街道の看板、佐賀という地名は「栄えの国」にちなみ「佐嘉」となり、明治以降「佐賀」と統一された。佐賀の宿場は鍋島36万石のお膝元であり佐賀藩の政治の中心、見所はたくさんありそうです。 佐賀宿 八戸付近 ※八戸に残るのこぎり道路、八戸の番所から東の八戸の番所構口まで一里の間、長瀬・六座・伊勢・白山・呉服元・柳の各町の折れ曲がり迷路の様になっています。これは、佐賀城防衛のため、敵が真っ直ぐに侵攻出来ないようにする戦略でした。 佐賀宿 高橋 橋 ※佐賀城下、長崎街道の西の入り口、八戸町の西の端、深町井樋に架けられた橋が高橋です。舟荷の帆柱や竿に支障がないよう橋桁を高く上げたので高橋と呼ばれました。江戸時代、この河川で船から積み卸しされる荷や、商人の倉庫が並び賑わっていました。 牛津宿(小城市) 牛津宿 赤レンガ倉庫 ※江戸期を覗わせる建物は少ないですが、1806年創業の玉屋デパートの前身である田中丸呉服店の倉庫として明治時代の中期~後期に建てられた施設です。商都牛津を象徴する歴史的な建物がこの建物です。今は演奏、演劇、展覧会やなど文化・交流の場に利用されているようで、平成12年に登録有形文化財となりました。隣は、牛津町会館(九州の商王と呼ばれた創業者:田中丸善蔵氏の邸宅) 牛津宿 牛津会館 牛津宿 全景 ※中央に架かる砥川大橋の先の家がまとまったあたりが宿場街でした。当時は、牛津川を利用して船荷がこの倉庫に搬入されたり、各地に出荷されたようです。 小田宿(江北町) ※白壁に格子の江戸の風情を残す街道沿いの商家です。 小田宿 北方町へ通じる街道 ■北方宿(武雄市) 北方宿 本陣跡 北方宿 北方追分 北方宿 海童神社の鳥居 ※塚崎宿へ向かう途中にある海童神社の奥には白石平野の水がめ「焼米」というため池があります。 北方宿 焼米 ※海童神社の鳥居から入ったところにあります。寛政十七年江戸幕府、徳川家斉の時代に造られたとあり、古くから干拓によって農地が拡大してきた白石平野に農業用水を供給する為につくられたものです。 鳴瀬宿(武雄市) ※享保年間に塚崎道が開かれるまで、鳴瀬~塩田経由で行く嬉野が本道であった。 鳴瀬宿 西構口 ※鳴瀬宿は、六角川の上流の鳴瀬山の麓にある宿場町でした。ここは水陸の交通の要衝で、地域の特産物である大甕(おおみか)や陶器、薪、木炭などが積み出されていました。家並みの裏側を流れる六角川に港があり、舟が盛んに往来していました。 大甕(おおみか):酒蔵など酒を造る所で用いる醸造用の大きな桶のこと。 鳴瀬宿 西岸寺 佐賀県武雄市橘町大字芦原4783
※鳴瀬には蓮池藩の鳴瀬代官所があった。後に塩田代官所に統合され出張所がおかれるが、出張所は宿の本陣には成りえず、本陣は、西岸寺に置かれ、杵島山に猟に訪れる鍋島藩主の休憩所としても利用された。今も鍋島の紋抱き杏葉が刻まれた藩主専用の玄関があります。 ■塚崎宿(武雄市) 武雄市楼門 ※武雄温泉のシンボル楼門です。 本陣は、楼門をくぐった場所に湯屋と隣接してありました。参勤交代の大名や公卿、あるいは幕府の高級官吏などが宿泊した最高級の旅館でした。 塚崎宿 宮の町夢本陣 ※旧長崎街道の柄崎宿周辺に造られた街道の面影を残す宮の町夢本陣 塚崎宿 高札場跡 ※高札があった交差点(辻)、札のある場所、辻は宿場の中心です。 塚崎宿 鍵型道路 ※ここが本町入口にある「鍵型道路」です。敵が攻めてきた場合、真っ直ぐに攻め込まれないように戦略道路として作られたと云われています。手前から突き当たりを左折して、すぐ右折すると有田・佐世保方面です。 塚崎宿 善念寺「牛の鼻町」 ※現在の新町の東寄りの一帯を、昔は「牛の鼻町」と呼びました。「牛鼻」の由来は、平安時代の末、源為朝が若木に館を構えていた時、領主の助明に頼まれて有田の白川に出没する大蛇を退治した。そのうろこを牛の背に積み、大宰府に行く途中、新町の西の入口の晒橋まで来たとき、牛が鼻をついて動かなくなったという。以後この町は「牛の鼻町」と言われるようになり、この名が善念寺の門柱に刻まれています。 塚崎宿 白壁の建物 塚崎宿 中村涼庵邸 ※中村涼庵は、幕末、長崎でシーボルトの最新医学を習得して佐賀に帰国します。現在の武雄に開業し、時の領主・鍋島茂義の侍医になります。そして、天保10年(1839年)自分の妹の子と茂義の子・茂昌に日本最初の種痘を行い成功しました。 塚崎宿 下西山 渕の尾ダム方面へ向かう長崎街道。 ◇塚崎宿 塔の原橋 塚崎宿 渕の尾水源 塚崎宿 渕の尾峠 塚崎宿 東川登 ※「おしん」のロケが行われた東川登周辺の旧長崎街道、先が嬉野宿方面。 塩田宿(嬉野市) ■嬉野宿(嬉野市) 嬉野宿 嬉野市塩田町大字大草野 嬉野宿 街道沿いの茶畑(嬉野町大字下宿) 嬉野宿 追分 ※嬉野町大字下宿字甲にある追分、嬉野側から見て、左は塚崎道本道(武雄市=塚崎)、右は塩田道(嬉野市)方面の長崎街道追分です。 嬉野宿 追分付近 ※嬉野宿は嬉野湯宿、嬉野湯町、嬉野駅などと呼ばれ、古くから湯治場として栄え、後に長崎奉行なども宿泊するようになり、また、大村藩との藩境として重要な宿場町へと発展していきました。ここ嬉野宿は佐賀藩の三支藩のひとつ、蓮池支藩の領地でした。佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の三男「鍋島直澄」が初代蓮池藩主として治めた宿場町です。 嬉野宿上使屋跡(明元寺) ※嬉野宿の上使屋は、現在の明元寺の場所にありました。当時、宿を通過する大名や長崎奉行、藩吏などが宿泊する蓮池藩の施設でした。 嬉野宿 本陣跡 瑞光寺 ※嬉野宿には、蓮池藩が運営する上使屋が明元寺の場所にありましたが狭くて老朽だったため、明和2年(1765)から文久2年(1862)迄の98年間、「瑞光寺」が大名など高級武士の宿泊する嬉野宿本陣でした。境内には往時の藩の紋章である杏葉紋を見ることができます。 嬉野宿 豊玉姫大社 嬉野宿 なまず様 ※豊玉姫神社のお遣いは、「なまず様」です。嬉野川を支配し、郷の守りについていて国に大難ある時には、六尺の大なまずが現れて神託を告げると語り伝えられています。この「なまず様」は古来より「肌の病」にご利益があると云われてきました。 嬉野宿 東構口 嬉野宿 西構口 大正屋の付近にあります。 嬉野宿 旧長崎街道 嬉野宿 轟の滝公園 嬉野宿 轟の滝 ■俵坂峠 (嬉野市) 嬉野宿 俵坂関所へ ※旧長崎街道は下の道です。嬉野宿から峠に向かって、この坂を下ったすぐのところに俵坂関所跡があります。 嬉野宿 俵坂関所バス停 ※俵坂関所跡はこのバス停から下った旧街道の横にあります。 嬉野宿 俵坂関所跡(降り口) ※バス停横にある俵坂関所跡への降り口 嬉野宿 俵坂関所跡 ※俵坂関所跡には、「従是北佐嘉領」と刻まれた領海石 が建っています。佐賀藩と大村藩の藩境としての要衝で、特にキリシタンの取締まりが厳しかったといわれています。ここは藩が管理になっていたので、幕府の管轄を関所、藩の管轄を「口留番所」と呼んだことから正しくは俵坂番所です。記念碑は、当時の門柱で建てられ、碑の周囲が関所の跡地です。横に沿って走る道が長崎街道です。 嬉野宿 俵坂 領境碑 嬉野宿 俵坂 籠立場跡 嬉野宿 俵山峠 嬉野宿 俵山峠 彼杵宿 俵山峠 彼杵宿 俵山峠 彼杵宿 俵山峠 彼杵宿 俵山峠 彼杵宿 俵山峠 彼杵宿 俵坂峠 鳥越一里塚跡 彼杵宿 俵坂峠 鳥越一里塚入り口 彼杵宿 俵坂峠 大楠 ※二の瀬集落には、大きな楠木が立っています。今立っている木は二代目で、先代の大楠は、樹齢3500年といわれています。明治27年ごろ、樟脳の原料として切り倒され、800円で売り払われたそうです。その利益金で小学校が建設され、「大楠小学校」は、明治41年に落成しています。街道沿いの案内表示に従い、鳥越一里塚を目指すと矢印は藪の中に向かっています。竹林をかき分けて登っていくと確かに「鳥越一里塚跡」があります。 彼杵宿 俵坂峠 鞘原大明神 ※ 遠くに神社の鳥居が見えます。と愛宕神社の鳥居で本殿は見えません。さらに行くと、「鞘原大明神」と刻まれた石塔が建っています。 ■彼杵宿(彼杵町) 彼杵宿 宿入口 彼杵宿 本陣跡 彼杵宿 追分 思案橋跡 ※ 平戸街道との分岐点です。写真手前が長崎街道嬉野宿方面、左手が松原宿大村方面、正面が時津渡し、右手が平戸街道になります。旅人は、ここ思案橋の上で、どちらに行くか思案したとか。 彼杵宿 日本二十六聖人乗船場跡の碑案内板 彼杵宿 日本二十六聖人乗船場跡の碑 ※豊臣秀吉のキリスト教禁教令により司祭ペトロ・バウチスタ以下26名が捕らえられ、陸路、長崎に送られるとき、1597(慶長7)年2月4日にこの船着場から水路時津に渡り、翌日に長崎で処刑された。 彼杵宿 歴史公園「彼杵の荘」古民家 ※公園内にある古民家です。明治時代の中期に建設された古い民家で当時のまま保存されています。 彼杵宿 歴史公園「彼杵の荘」ひさご塚 ※公園内にある「ひさご塚」は長崎県の代表的な古墳で、県内最大級の前方後円墳です。ひょうたんの形をしているところから、その名で親しまれています。 彼杵宿 牛ノ頭壷日審上人霊場 彼杵宿 駕籠立場跡 彼杵宿 串島城跡入口 彼杵宿 才貫田付近 ※長崎街道は彼杵(写真向こう側)から大村(写真手前)に向かって、国道34号線の海岸線側を走ったり、国道34号線を横切って、見晴らしのいいあぜ道を国道に沿って走っています。 ■千綿宿(大村市) 千綿宿 旧街道 ※彼杵宿から大村方面、千綿宿に向かう旧長崎街道は、国道34号線を途中、テクノパーク入口信号あたりから海岸線に斜めに入り、JR大村線を渡って海岸線に沿って進みます。 千綿宿 旧街道 千綿宿 旧街道 千綿宿 旧街道 千綿宿 町並み 松原宿(大村市) ※大村市内には、大村宿と松原宿の2つの宿場があり、北に位置する松原宿は南北約640mの町並みに、休憩場としての御茶屋が置かれ、幕末には71軒の家々が建ち並んでいたようです。 ◇松原宿 町並み ※松原宿には、本陣や脇本陣はなく、茶屋が立てられ、諸大名が通行する時の小休憩所に当てられた宿場です。万治2(1659)年、当宿に駅場が置かれ、大村城下町と彼杵の両宿からの荷物をここで継ぎ立てましたが、文政年間(1818-1830)に廃止されました。 松原宿 松原八幡神社 ※松原宿の中央位置する松原八幡神社は、中岳の合戦に破れた、大村領主、大村純伊が、祈願をしたとの伝承から、毎年11月15日頃、例祭として「松原くんち」が行われています。 松原宿 旧松屋旅館 ※松原八幡神社の前の旧松屋旅館は、当時を偲ばせる建物で、江戸時代、休憩所として利用されました。その後、昭和40年代まで旅館として使われました。 松原宿 ※旧松屋旅館の前には、現代版、御茶屋があります。 松原宿 ※ここか大村川から松原宿への入口付近 松原宿 五色塀 ※彼杵地区に多い五色塀 松原宿 鹿の島 大村宿(大村市) ◇大村宿 永昌宿(諫早市) ◇永昌宿 矢上宿(長崎市) ◇矢上宿 日見峠(長崎市) 戦国時代、長崎氏のライバル深堀氏が、夜間、網場【あば】に上陸し、大軍がいるかのように盛んに火を焚いたことが「火見」転じて「日見」になったそうです。日見峠は、江戸時代、長崎街道の中で西の箱根といわれた難所でした。日見峠は、長崎県道116号沿線の長崎市蛍茶屋、本河内町(ほんごうちまち)と芒塚町(すすきづかまち)の境にある、標高200メートルの峠をいいます。 日見峠 日見トンネル東側入口 ※日見トンネルの東側(芒塚町(すすきづかまち))から長崎街道、日見峠への入口は2つあります。1つ目のルートは、日見トンネル手前を左に登るルート、2つ目は坂下公民館からインターチェンジ下のトンネルを、白山商店:長崎県長崎市芒塚町759-7付近に抜けて、そこから曲がりくねった道を進むルートです。 日見峠 芒塚句碑 ※1つ目のルート、芒塚句碑は、蕉門十哲の一人、向井去来、慶安4年~宝永元年(1651~1704)が長崎を離れる時に見送りに来た人達に詠んだもので、「君が手もまじるなるべし花薄」と刻まれています。天明4年(1784)に長崎の俳人達が建立したものです。 日見峠 入口付近登り ※1つ目のルートは、ここから罵倒観音のあるところまで約400m急坂が続きます。 日見峠 2つ目のルート ※2つ目のルート、長崎芒塚インターチェンジ近くの、芒塚町坂下公民館からインターチェンジ下のトンネルを、白山商店:長崎県長崎市芒塚町759-7の横に抜けて曲がりくねった道に入ります。途中、田森電機工業、古賀鉄工、芒塚中部減圧槽、近代ジオテック、、池田建具木工所を少し進むと、浜口鉄工所があり、ここで、旧長崎街道と明治新道に分岐します。真っ直ぐの舗装道路が日見新道で、日見峠の頂上「切通し」に通じます。旧道は、地震石神神社へ登って下りて新道に戻る迂回ルートになっています。 日見峠 馬頭観音 ※ここで、1つ目の日見トンネル手前から左に登ってきたルートと2つ目の芒塚町坂下公民館から白山商店の横から曲がりくねったルートが合流します。 日見宿 旧長崎街道上り口 ※左は長崎に続く日見峠、明治新道で、頂上は切通しの明治時代に作られた道路です。この標識から右に登れば日見峠関所跡・御夢想地震神を抜けて中尾峠・木場峠へと続く山道ですが、10分程度で新道沿い脇に戻る迂回路です。同じく旧長崎街道の標識があります。 ◇日見宿 日見明治新道 ※明治時代に、日見峠の大掛かりな道路改修が、新たに設立された日見新道株式会社によって行われました。約1年4ヶ月の工期で、総工費は当時のお金で約4万7000円という莫大な工費をかけたれました。新道の開設によって街道最大の難所といわれた日見峠も、人力車や馬車などで通行できるようになりました。中でも最大の工事が峠を33m切り下げた切通しで約1年掛けて明治15年(1882)開通しました。会社は、工事費を償還するため、一人5厘、人力車2銭、馬車5銭の通行料をとることにしたそうです。これが我が国の有料道路の始まりいわれており、明治17年(1884)から明治22年(1889)まで徴収が行われました。 日見宿 日見峠 日見宿 関所跡 ※日見峠の頂上に近くに旧街道沿いに関所跡の碑がひっそり立っています。 日見宿 地震神社鳥居 日見宿 新茶屋 ※日見トンネル長崎側(西側)日見峠入口付近の新茶屋之跡です。明治新道が出来たときに明治新道から約100m長崎側に下ったところに設けられました。 日見宿日見トンネル西側登り口 ※長崎街道、蛍茶屋、大河内町から日見峠への入口は、日見トンネルに向かって左脇の小道を登ってすぐ歩道橋を右渡ります。この道はやがて、明治新道につながります。 日見宿 日見トンネル出口 ※長崎街道は、日見トンネルを西に出てから長崎県道116号の北側を沿って西に向かっています。途中、本河内高部水源地の横を通り、長崎市街地へと向かいます。 日見宿 本河内高部水源地付近 ※長崎街道は、日見トンネルを西に出てから長崎県道116号の北側を沿って西に向かっています。途中、本河内高部水源地の横を通り、長崎市街地へと向かいます。 日見宿 国道34号合流点 ※旧長崎街道は、本河内高部水源地の横を通り抜けると、本河内町2丁目15の妙相寺道交差点で一旦国道34線と合流します。そのあと、すぐ左斜めに分岐して、聖母の騎士修道院の横に向かいます。 日見宿 国道34号からの分かれ道 ※旧長崎街道は、再度、ここから聖母の騎士修道院の横に向かっています。 日見宿~長崎宿 聖母の騎士修道院 ※長崎街道は、聖母の騎士修道院(長崎市本河内2-2-1)あたりで国道34号線にさえぎられています。聖母の騎士修道院:ポーランドのカトリック神父、マキシミリアノ・コルベが1930(昭和5)年に来日し大浦天主堂下の洋館に住み, 翌年この地に「聖母の騎士修道院」を設立。ユダヤ人をかくまった罪でナチス・ドイツに捕らえられ, アウシュビッツに収容さて、妻子ある囚人の身代わりとなって餓死刑を受け, 47歳で死去した。ローマ法王庁は1982年に コルベ神父を「聖者」の列に加えてその遺徳をたたえた。 ●長崎宿(長崎市) 長崎宿 松嶋稲荷神社入口 ※松嶋稲荷神社は、日見トンネルから長崎市街地に向かう国道34号線沿いの対向車線にあります。車の場合は、先でUターンしてか来ないと入れません。 長崎宿 松嶋稲荷神社鳥居 ※一の橋を渡りトロトロ坂を通り蛍茶屋を過ぎ、本河内水源地の手前の松嶋稲荷神社辺りで国道34号線に出ます。 長崎宿 ※下は、庄現坂、坂下、馬落し坂方面、右に渡鳥塚、左に地蔵の小堂があります。 長崎宿 庄現坂 ※馬落し坂から続く長崎街道の坂で、老樹「庄現桜」があったことからこの地の名前がつけられたという。 長崎宿 坂下 馬落し坂 ※蛍茶屋から庄現坂へへ向かう坂下付近、馬が崖下に転げ落ちるような急坂だったことから「馬落し坂」とも言われた。 長崎宿 蛍茶屋跡 ※一ノ瀬橋のすぐそばには蛍茶屋跡があります。 日見宿 一ノ瀬橋 ※一の瀬橋は承応2年(1653)唐大通事陳道隆(日本名頴川藤左衛門)が私財を投じて架設したアーチ構造の石橋です。この付近には、料亭などもあり、夏は螢の名所で螢茶屋と呼ばれるようになりました。 長崎宿 中川橋~一ノ瀬橋 ※長崎街道、中川橋から一ノ瀬橋に向かう途中の町並みです。 長崎宿 中川橋のアーチ ※長崎市内にある中川橋は、承応3年(1654)に架けられたもので、旧名を「中河橋」といい長崎街道の玄関橋でにある橋でした。この橋は布石(アーチ型の補強用石)に独特の技術が施されており、当時の橋つくりの高い技術力を示しています。 長崎宿 中川橋の石畳 ※シーボルト通りから長崎街道に入ってすぐの、中川橋には、清国江南様式の石畳がここだけに残っています。 長崎宿 旧長崎街道とシーボルト通りの分岐 桜馬場中学校横を通り過ぎて東に進むと、途中、長崎街道とシーボルト通りが分岐します。 長崎宿 桜馬場中学校横の石垣 長崎宿 「長崎街道ここに始まるの碑」 ※電車通り、新大工町からシーボルト通りに入った地点に、「長崎街道ここに始まる」の碑があります。もともと長崎は、豊臣の時代から中央直轄地で、鎖国制度をとった江戸時代は、出島でオランダとの貿易・交流が行なわれました。一方、長崎の唐人屋敷には、清の商人を滞在させて清と貿易も行なわれました。また、対馬藩では、朝鮮のプサンに倭館(わかん)と呼ばれる出先機関を置き、朝鮮との外交や貿易も行われていました。 長崎宿 シーボルト通り ※長崎市新大工町から鳴滝塾のあった鳴滝2丁目までの市道1000メートルがシーボルト通りですが、諏訪神社からシーボルト通りに入ると、そのほぼ中間点に「長崎街道ここに始まる」の碑があります。シーボルト(1796~1866)ドイツの 医学者で博物学者でしたが、オランダ商館の医員として長崎に着任後、鳴滝塾を開き日本人に医学を教え日本の医学に貢献しました。 ◇長崎宿 桜馬場天満宮 ※ここは「オランダ人出立の場所」と呼ばれる桜馬場天満宮です。オランダ商館長らが江戸へ向けて旅立つ時にここに集まり、別れの杯をかわして江戸へ出発した。 ◇小倉(起点)常盤橋~黒崎(北九州市八幡西区)~木屋瀬(北九州市八幡西区)~飯塚(飯塚市)~内野(飯塚市)冷水峠~山家(筑紫野市)~原田(筑紫野市)~田代(鳥栖市)~轟木(鳥栖市)~中原(みやき町) ~神埼(神埼市) ~境原(神埼市) ~佐賀(佐賀市) ~牛津(小城市) ~小田杵島郡江北町) ~北方(武雄市)~塚崎(武雄市)~鳴瀬(武雄市)~塩田(嬉野市) ~嬉野(嬉野市)境原峠~鹿島・浜宿(鹿島市)~彼杵(東彼杵郡東彼杵町) ~松原(長崎県大村市)~大村(長崎県大村市)~永昌(長崎県諫早市) ~矢上(長崎県長崎市) ~日見(長崎県長崎市)日見峠 ~長 崎(終点) ◇江戸時代鎖国のもと唯一海外の窓口であった長崎出島には南蛮から異国の品々や技術が伝来し、オランダ商館長の江戸参府や諸大名の参勤交代のおり、街道沿いに伝わり各地の文化に大きな影響を与えました。中でも砂糖と菓子作りの技法は全国的にも有名な名菓を生み出し、長崎街道シュガーロードとして栄えました。 |
●デートコース ●動物と遊ぶコース ●ファミリー向けコース ●無料観光スポット ●環境を学ぶコース ●文学碑を訪ねるコース ●夜景スポット |
門司&小倉 |
(C)2012 nice communication service all rights reserved.